下の動画は リサイクルおっさんの リサイクル・競市場です。
北は 大阪から 南は石垣島までの 業者さんの競売仕入れです。
真ん中を クリックしてください。
市場模様が解ります。
熊本セリ市場
地図上クリック御願いします
熊本県商品リサイクル事業協同組合
..上クリック御願い致します。
2014年09月25日
提灯と神と祭りと武士道と・・・・・
男には 妙な 心理があって
提灯が 蠢くと 心が 浮き浮きで
多少は 楽しくなってくるから
お祭り野郎等と 比ゆされては又嬉しからずやで
華やかさの 好きな連中だと
言われれば それまでだが
どうも その昔より続く 武士の流れの郷には
庶民の 娯楽の参加は 良しとせず
祭り等と言う 風習は存在していない。
それで そうなのか 思えるところは
その昔 孤島とまで称された 我が島にも
綿々と 続いた祭りなんて 聞いたこともない。
精々が 大正~昭和に 創られた様な
神を 中心に 諏訪神社 秋祭りくらいで
何とも 大衆性のない祭りであろうか?
祭りは 百姓を中心に大きくなった
東北・祭りの様な 形が多く
つまりは 税の重さや 虐げられる階級制に
耐える 必死の抵抗であった様な気がする。
そこにの末端には
世の中の下級人種だけの世界が 存在し
その時期 その時だけは 思いっきりの
弾けた時間が 訪れたに違いない。
いつの時代も 意識されない階級も含めて
差別や 身分なんて 存在するもので
そんな世界だからこそ 無礼講なる言葉が
存在し 欲求不満のはけ口が
その祭りであったようなきがする。
武門に 貴ぶ者は
庶民の遊里に踏み入るべからず!
TEL 096-279-3688

(家具・家電・業務・棚・家庭用品・布団・
店物・ベッド・骨董・小物・
鍋。包丁・皿・クラー・椅子)
生活~業務~企業品の全ての製品。
株式会社 くまもと流通(HP)
他店 御案内(Bg)
ごみ処理センター(Bg)
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2011年10月22日
羽柴(豊臣)天四郎秀綱と天草四郎時貞の思い
鹿児島・見積・小旅行は 以前から
気になっていた。
ふるさと・湯島の美少年”天草四郎時貞”の
出生を 探索 面白くなって来た。

豊臣秀頼公の大阪脱出と薩摩落ち
秀頼公の 墓とされる
現在の 鹿児島市谷山4丁目木之下
(木之下公民館近く)
元和元年頃に 200余名の武士の集団が
船上がりして 住み付いたと言われ
他国者を受けいれない 薩摩・島津藩は
これを 進んで受けいれ 木之下川に
木之下部落が 存在したという
木之下は 木下であり 島津藩の帰化名の
三文字ではあるが 秀吉公の元名
”木下藤吉郎”へと 繋がるのである

やがて 大阪夏の陣が終り
京都・大阪地方では 大阪・豊臣贔屓の
民衆たちの間で
”花のような秀頼様を
鬼のようなる真田が連れて
退きも退いたよ 加護島(鹿児島)へ”と
童歌が 歌われたという。(前川和彦書)
戦を知らない 少年秀頼に対する同情と
そんなに簡単に 死なない知将
真田幸村への 期待感が こんな歌を
生んだのかもしれない。
秀頼23歳は 焼け失せた城櫓の
焼け跡からは 真実は 何の骨骸も
発見されなかった。
(一子相伝)
秀頼公は 元和元年五月七日 山里曲輪の
避難用に作られた櫓に 速水甲斐守の
先導で入り 長男国松・木村重成・
真田大助・大野治長・他に 淀様・千姫が
入ったそうです。
同日 秀頼公は 長男国松 木村重成
真田大助 他若干の近習の武士達と共に
抜け道を通って 城外ヘ脱出し
小船で 大淀川を下り 大阪湾口付近に
待機していた島津家の軍船に 移乗して
直ちに薩摩ヘ 向かったそうです。
(前川和彦氏書)
”羽柴天四郎秀綱”が 生まれるには
父親の 秀頼公の存在がなければ
どうなることでもない 確かな足跡があり
鹿児島 谷山の谷村の 庄屋谷村家に
伊地知兼定を 頭目とする隠密集団に
案内され 現在の 下福元町古屋敷から
船上がりするには そんなに日を要する
までもなかった。
羽柴(豊臣)天四郎秀綱と天草四郎時貞の思い
天草四郎時貞 つまり四郎殿は
鹿児島市 下福元町(谷山)木之下川の
木之下部落に 大阪より落ち延びた
23歳の豊臣秀頼が
22年間 45歳までの間に
大阪より成田某女(側室)との間に
出来た嫡子・長男・国松に続き
鹿児島入り後に 谷山の庄屋の娘
谷村サト(側室)に生ませた
次男・木下善右衛門・三男・谷村誉三郎
四男・羽柴天四郎・五男清野誉之右衛門と
なっている中で 他の子供達につながる
子孫の足跡は 谷山史と谷村家の
家系記録に残るところだが
四男・羽柴天四郎秀綱の
記録だけは 寛永14年以来 歴史から消え
待っていたように 秀頼は九州の南端で
忽然と 自刃して果てる。
それから 天草・島原の乱の始まりと
その裏側を さまよいながら 時を探リ
出没する
大分・日出の大名木下(豊臣)家の
六男・45・6歳 歌人・木下出雲守入道
(宗連)が暗躍するのと時を同じくして
羽柴(豊臣)天四郎秀綱こと
”天草四郎時貞”が
大矢野・伊(湯)島ヘ渡り
天領・天草・有明の海を
湯島の峰の 遠見塚から天を仰ぎながら
祖父・祖母・父の
夢を再びこの 九州の地にと
豊臣の万感の願いを 一身に受けて
決心したのは 寛永14年10月27日
島登りの 樹々の秋色が やがて
終る頃であったろう。
くまもとリサイクル市場・尾ノ上店
TEL 096-381-1697
株式会社 くまもと流通(HP)
ごみ処理センター(B)



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気になっていた。
ふるさと・湯島の美少年”天草四郎時貞”の
出生を 探索 面白くなって来た。

豊臣秀頼公の大阪脱出と薩摩落ち
秀頼公の 墓とされる
現在の 鹿児島市谷山4丁目木之下
(木之下公民館近く)
元和元年頃に 200余名の武士の集団が
船上がりして 住み付いたと言われ
他国者を受けいれない 薩摩・島津藩は
これを 進んで受けいれ 木之下川に
木之下部落が 存在したという
木之下は 木下であり 島津藩の帰化名の
三文字ではあるが 秀吉公の元名
”木下藤吉郎”へと 繋がるのである

やがて 大阪夏の陣が終り
京都・大阪地方では 大阪・豊臣贔屓の
民衆たちの間で
”花のような秀頼様を
鬼のようなる真田が連れて
退きも退いたよ 加護島(鹿児島)へ”と
童歌が 歌われたという。(前川和彦書)
戦を知らない 少年秀頼に対する同情と
そんなに簡単に 死なない知将
真田幸村への 期待感が こんな歌を
生んだのかもしれない。
秀頼23歳は 焼け失せた城櫓の
焼け跡からは 真実は 何の骨骸も
発見されなかった。
(一子相伝)
秀頼公は 元和元年五月七日 山里曲輪の
避難用に作られた櫓に 速水甲斐守の
先導で入り 長男国松・木村重成・
真田大助・大野治長・他に 淀様・千姫が
入ったそうです。
同日 秀頼公は 長男国松 木村重成
真田大助 他若干の近習の武士達と共に
抜け道を通って 城外ヘ脱出し
小船で 大淀川を下り 大阪湾口付近に
待機していた島津家の軍船に 移乗して
直ちに薩摩ヘ 向かったそうです。
(前川和彦氏書)
”羽柴天四郎秀綱”が 生まれるには
父親の 秀頼公の存在がなければ
どうなることでもない 確かな足跡があり
鹿児島 谷山の谷村の 庄屋谷村家に
伊地知兼定を 頭目とする隠密集団に
案内され 現在の 下福元町古屋敷から
船上がりするには そんなに日を要する
までもなかった。
羽柴(豊臣)天四郎秀綱と天草四郎時貞の思い
天草四郎時貞 つまり四郎殿は
鹿児島市 下福元町(谷山)木之下川の
木之下部落に 大阪より落ち延びた
23歳の豊臣秀頼が
22年間 45歳までの間に
大阪より成田某女(側室)との間に
出来た嫡子・長男・国松に続き
鹿児島入り後に 谷山の庄屋の娘
谷村サト(側室)に生ませた
次男・木下善右衛門・三男・谷村誉三郎
四男・羽柴天四郎・五男清野誉之右衛門と
なっている中で 他の子供達につながる
子孫の足跡は 谷山史と谷村家の
家系記録に残るところだが
四男・羽柴天四郎秀綱の
記録だけは 寛永14年以来 歴史から消え
待っていたように 秀頼は九州の南端で
忽然と 自刃して果てる。
それから 天草・島原の乱の始まりと
その裏側を さまよいながら 時を探リ
出没する
大分・日出の大名木下(豊臣)家の
六男・45・6歳 歌人・木下出雲守入道
(宗連)が暗躍するのと時を同じくして
羽柴(豊臣)天四郎秀綱こと
”天草四郎時貞”が
大矢野・伊(湯)島ヘ渡り
天領・天草・有明の海を
湯島の峰の 遠見塚から天を仰ぎながら
祖父・祖母・父の
夢を再びこの 九州の地にと
豊臣の万感の願いを 一身に受けて
決心したのは 寛永14年10月27日
島登りの 樹々の秋色が やがて
終る頃であったろう。
くまもとリサイクル市場・尾ノ上店
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2011年04月05日
故郷・天草・湯島・360度
我 ふるさとは 海の沖で 小島で
段々畑のその上の 高台から 360度のパノラマは
雲仙・普賢から 有江・有馬・口之津・早崎・
鬼池・本渡・有明・松島・野釜・串・三角・網田・長浜
天明・河内・長洲・荒尾 大牟田と
やがて 眺めは 一回転する。
残念だが この日は 海の春霞で 何も写せず
東峰から 集落・港。定期渡海船を 写した。
海渡り鶯が 聞こえる。
開放されたのどかな 半日であった。
TEL 096-279-3688
くまもとリサイクル市場 第二空港店(地図)
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店物・ベッド・骨董・小物・
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2009年11月22日
湯島灯台「名誉灯台長」に上天草市の松尾さん
地域の宝・大切に守る
2009年11月21日(熊本日日新聞)
上天草市大矢野町湯島の
遊漁船業、
松尾重人さん(50)に
18日、地元にある
湯島灯台の
「名誉灯台長」の称号が
贈られた。
第10管区海上保安本部
(鹿児島市)が2000年に
称号付与制度を創設しており、県内2人目。
灯台は省電力化などで管理に人手が掛からなくなっている
半面、地域とのつながりが薄れる傾向にある。そのため、
離島にあったり歴史が古かったりする灯台の役割や
重要さを継承していってもらおうと制度が創設された。
松尾さんは、3年前から自宅近くの防波堤灯台の
監視協力者を務めていることなどから選ばれ、
熊本海上保安部の和田憲彰次長から認定証と
特製バッジが贈られた。小さいころから湯島灯台で
よく遊んでいたという
松尾さんは「地域の宝として大切に見守っていきたい」
と話した。
湯島灯台は1916年に開設され、58年7月まで
管理人が常駐していた。07年10月、
光源が白熱灯からLEDに切り替えられた。
県内では、四季咲岬灯台(苓北町)にも
名誉灯台長がいる。(岡本幸浩)
夕日の海里 湯島
2009年11月21日(熊本日日新聞)

遊漁船業、
松尾重人さん(50)に
18日、地元にある
湯島灯台の
「名誉灯台長」の称号が
贈られた。
第10管区海上保安本部
(鹿児島市)が2000年に
称号付与制度を創設しており、県内2人目。
灯台は省電力化などで管理に人手が掛からなくなっている
半面、地域とのつながりが薄れる傾向にある。そのため、
離島にあったり歴史が古かったりする灯台の役割や
重要さを継承していってもらおうと制度が創設された。
松尾さんは、3年前から自宅近くの防波堤灯台の
監視協力者を務めていることなどから選ばれ、
熊本海上保安部の和田憲彰次長から認定証と
特製バッジが贈られた。小さいころから湯島灯台で
よく遊んでいたという
松尾さんは「地域の宝として大切に見守っていきたい」
と話した。
湯島灯台は1916年に開設され、58年7月まで
管理人が常駐していた。07年10月、
光源が白熱灯からLEDに切り替えられた。
県内では、四季咲岬灯台(苓北町)にも
名誉灯台長がいる。(岡本幸浩)
夕日の海里 湯島
2009年07月30日
ふるさと天草かたろう会

”ふるさとかたろう会”は
盛大であった。
米満会長も
来賓の
熊本市幸山市長も
上機嫌であった。最も 参加する政治家は 多いが 意外に
その場を 心得ていてそんなに 売り込みの 人も少なく
意外にフランクな 会話が多い。顔も 崩れんばかりに
笑いこける市長に
「市長 アーたが チット テレビで
そぎゃん つらば すっと
人気ん出るばな!」
「なんば 言うですか! こっで 結構
もっとですバイ」
リサイクルおじさんの 顔を 見れば 笑う市長は
気心許せるのか。口悪おじさんが 何を言っても
気を悪くしない。 こんな青年市長が 可愛くなってくる
市長 何時も 同郷会来賓出席。 サンキュー!
天草の学生さん下宿用品・家電を
お安く。リサイクル品の販売。
